12月29日の日没前、是政橋の上で多摩川を描いていた。下書きを終えて、ちょうど紙に水を置き始めたとき「こんにちは」と声をかけられた。紺色のサファリハットを被った中高年の男性で、首から黒い一眼レフを下げていた。
...
「あなた、絵を描いているんですか」
「はい。絵を描いています」
「水彩ですか」
「水彩です」
「美大の学生さん?」
「一応、学校は卒業しました。写真を撮られてるんですか」
「そう。野鳥を撮りに。でも、きょうはいいのなかなか撮れないね」
外でスケッチしていると、かなりの頻度で話しかけられる。最近、描きながら会話ができるようになってきた。
「絵を描かれたりはするんですか?」
「描かないね。小学校の頃は描いたよ。前に版画を少しやったけど」
「そうですか」
「今はもう写真ばっかり。写真だったら失敗がないし」
「かもしれません」
「でもやっぱり、絵と写真は違うよね」
「そうですか」
「そうだよ、だって、絵は魂が入ってなきゃいけないでしょう」
たましい。
「それが写真との大きな違いだよ。写真はただ写すだけ」
男性に「魂というのは何ですか」と聞いてみたかったけれど、聞かなかった。 自分はよく会話の中で「今おっしゃった〇〇の定義は何ですか」と聞き返して、会話の流れをおかしくしてしまう。
「確かに魂は大切です。そう思います」
「そうですよねえ」
「魂あっての絵だと思います」
「本当にね。ああ、きれいなグラデーションだ」
「ありがとうございます」
「いいですね。頑張ってください。それじゃ」
男性は橋を渡って去っていった。
...
川から戻ってこの会話を書き下した。
私は「魂とは何か」をわかっていない。「絵に魂を込める方法」もわかっていない。「魂」を定義できていないので「魂を込める」が定義できない。そういう私が「絵に魂を込める」ことはできるんだろうか。
できるのかもしれない。絵描きは「魂」も「魂を込める方法」もわかっていなくても、絵に魂を込めることができるのかもしれない。今の実感を言葉にするとそうなってくる。
写真にも魂は込められるのかもしれない。ただ、写真に詳しくないし、魂とは何かもわかっていないから、ここから先を私は書けない。