自信を持って生きる (亡くなったKさんの思い出) (4)

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...

(3から続く)

 

私とSさんはKさんの携帯に連絡しつづけた。

午後の3時を過ぎても、Kさんからの応答はなかった。

Sさんが言った。

「家で倒れてたりするんじゃないですか」

「これはもう、私たちではまずいですね。研究所の人に話すしかない」

「研究所に話して大丈夫なんでしょうか。事情がわかったら、Kさん、職を失うかもしれない。僕、責任持てないです」

Sさんは以前、Kさんのデスクのそばで "酒瓶のようなもの" を見たらしかった。

「私だって責任持てないですよ...だけど、Kさん家で倒れてたら、もう本当にまずいです」

...

研究所の管理室に行って状況を説明した。

研究所の方はすぐ対応してくださった。

「わかりました。こちらから彼に連絡します」

「よろしくお願いします」

「私達が彼を病院へ連れて行きます。産業医とも話をします。K君は一人暮らしで、ご実家は東京からかなり遠い。研究所がサポートするしかない」

...

居室に戻って、気が抜けた。

Sさんの言うように、私はKさんの人生に関して、何か重要な引き金を引いてしまったらしかった。私が言わなくても、いずれ誰かがKさんに言ったかもしれない。でも、私が言ってしまった。研究所にもアクションを促してしまった。

私は以前、個人的な興味から依存症について調べていた。依存症の経過の厳しさについて、いくつかの書籍で読んで知っていた。この病は、自力で回復することが本当に難しい。誰も何も助けなければ、Kさんはこのまま沈んでいってしまう。

だけどこれは、私がやって大丈夫だったんだろうか。

私は頭の中で、Kさんと自分の関係性を整理した。私は、たまたま派遣されてきた外部の技術支援員だ。Kさんは私の上司で、私はKさんの部下だ。私は、Kさんと話しているととても楽しい。私とKさんは仲が良いかもしれない。なぜならお互い「人とうまく話せない」「人とうまく仲良くできない」タイプの人間だからだ。依存症の根底には、他人と関わることに難を抱えた人間特有の病理がある。私はそれを肌で感じる。私も同じ素質を持っているからだ。現状だって病みあがりに近い。それから、病んだ人間が病んだ人間と関わるときには、とても色々なことが起こりうる。

だから、関わってしまった以上、私も覚悟を決めなくてはいけない。

私は「今後Kさんが亡くなったとき、その死の責任を自分が負わない」と心に決めた。冷たく聞こえるかもしれないけれど、そうする必要があると感じた。

気持ちを整えて、もう一度Kさんの携帯にメールを送った。連絡がないためとても心配していること、研究所の方に状況をお伝えしたこと、今後研究所からサポートがあること、Sさんも心配していること、また食堂で漫画や音楽の話をしたいことなどを書いた。

...

数日後、Kさんが居室にやってきた。

髪を短く切り、おろしたてのYシャツを着ていた。

「Kさん!お久しぶりです」

「お久しぶりです」

Kさんは坦々としていた。

「大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ。研究所とも話をしました」

「とにかく、良かったです。病院へは行かれたんですか」

「行ってきました。これからしばらく通院します」

「通院...入院ではないんですね」

「通院でいいそうです。リーフレットとかを大量にもらった」

「どちらの病院ですか」

「三鷹です。吾妻ひでおが入院してたのと同じとこかもしれない」

「... 良かった ? ですね...」

...

お昼休みに食堂へ行く途中、Kさんが話してくれた。

「ここ3日かけて、酒を抜いていました。きつかった。途中で幻覚を見ました。天井にうごめく大量の何か...寝ずの修行と同じくらい厳しかった。だけど、さっぱりした。生まれ変わった気分です」

「良かったです。ずっと続けていけたらいいですよね」

「そうですね」

私は、前から考えていたことをKさんに提案してみた。

「Kさんはこれから何か、お酒以外の楽しいことを見つけられたらいいんじゃないでしょうか」

「楽しいことですか。修行をやってるので他はいいですが」

「Kさんの修行、お話を伺う限り "苦行" に聞こえるんです。もっと "楽" の方向性で何か探したらいいと思うんです。楽しいことをして生きた方が毎日楽しいと思うんです。せっかく生まれ変わられたんですし。新しい趣味を始められてはいかがですか。例えば、絵とか」

「絵は描きません。」

即答だった。

「...前、絵がお好きで『絵描きになりたかった』と伺ったので...」

「私、絵は描かないんですよ」

「いや、そんな、本格的でなくていいんです。趣味の絵を描くのは楽しいです。特に水彩はいいですよ。一回やってみませんか。紙の上に水を引いて、そこに絵の具をぶわーって垂らすだけで、すごい和みます」

「やりません。」

「いや、ちょっとだけでも...」

「やりませんよ」

「......」

 

 

 

(5へ続く)

...

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自信を持って生きる (亡くなったKさんの思い出) (3)

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...

(2から続く)

 

私は、前からずっと気になっていたことをKさんに聞いてみた。

「Kさんは何か修行をされているんですか」

「そう、修行してる」

「どういう修行なんですか」

「坐禅を組み、大声を出して鈴を振る」

「...」

「思うほど怪しいものではないですよ。特に、坐禅はいい」

「何のための修行なんですか」

「無心になるため。」

「無心。」

「坐禅を組み続けると、本当の無心がやってきます。私は以前、何日間にもわたってぶっ続けで組んだことがあります。不眠不休、手も足も痺れ、頭もチカチカして、ああ、もうだめだ、と思うんだけど、それでもただただ組み続ける。するとある時、目の前にパッと "新しい状態" がやってくる。物事がみな透き通って、何もかもがとてもクリアに見えてくる...これは、やったことのある人でなければわからないだろうね」

「......」

「興味があるなら案内しますよ。あなた、脳の研究をやっていたなら、一度くらい  "そういう状態" を見たいと思ったことがあるでしょう」

「いえ、結構です」

「なんだ、もったいない。私から紹介しますよ」

「絶対に結構です..」

私は、目の前のKさんがやつれて、あまり健康そうに見えなかったので、おそらくこの修行は身体を痛めるものなのだと想像した。Kさんは会話の途中、よく咳払いをした。鈴を振る修行で声を出し続けるため、喉を壊しているらしかった。

...

2016年の秋、Yさんが一度研究を離れ、企画のための部署へ異動することになった。Yさんは「色々ごめんなさい!何かあったらいつでも連絡してください。すぐそちらへ向かいます」と言って、企画の建屋へ移っていかれた。

私のほとんどの仕事は、Yさんのデータ解析のサポートだった。「この先どうなるんだろう」と思った。研究所と派遣会社のやりとりがあった後、私の派遣契約はそのまま継続となり、私の作業監督はKさんが引き継ぐことになった。

Yさんが去って、居室は急に静かになった。

居室にはKさんと、委託職員のSさん、私の3人が残った。

Sさんは外部の会社の方で、実験設備の開発サポートをしていた。私とSさんは、Kさんが居室にいないとき、2人でよく「どうしましょう...」と相談しあった。

仕事上、Kさんとやりとりをする機会が増えた。Kさんとのやりとりでは、悩まされることが多かった。Kさんは、ミーティングの時間を忘れてしまうことがよくあった。お願いした作業がいつの間にか"なかったこと"になってしまうこともよくあった。ご本人は、変更や確認の内容を本当に覚えていない様子で、私はとても混乱した。何かの機会にKさんにそのことについて尋ねると、Kさんは黙り込んでしまい、しばらく話をしてもらえなかった。

...

ある日、Sさんと揃って研究所の方に相談した。

「それは、困りましたね」

「大丈夫なんでしょうか」

「K君は本来、昔から真面目で、何でもきっちりやるんです。私はK君が入所した時から見ていますが、そこはずっと変わらないです。遅刻と欠勤は多かったけど、このところはちゃんと来てるようですし、少し様子を見てもらえませんか。何か気づいたら、また連絡してください」

「わかりました」

...

Kさんは、居室にいる多くの時間、うつむいて体調が悪そうだった。

3時に居室でお茶をする時、Kさんに話しかけた。

「ご飯を食べていますか」

「あまり食べる気がしない」

「...」

「あなたの心配はいりません」

「病院に行かれた方がいいのではないですか」

「私は、修行があるからいいのです」

Kさんからは、いつも酢のような香りがした。

...

Kさんの状態は、日増しに悪化しているように見えた。毎朝、苦い顔をして出勤してくる。朝から居室にはいるけれど、机に座っているのが辛そうだった。顔は赤黒く、いつも汗をかいていた。昼、食堂に行っても、ものが食べられず、家から持ってきた野菜ジュースだけを飲んでいた。

私は、言わないわけにいかなかった。食堂でSさんとテーブルを囲んで、Kさんに切り出した。

「専門機関に相談して、お酒をやめられた方がいいと思います」

Kさんは、ギョッとした表情をした。私はその表情を見て、この人、今までずっと隠しおおせてると思ってたのか、と思った。

「一日にどのくらい飲まれてますか」

「私は、私の意思で飲んでいるんだから、何の問題もありませんよ」

「専門機関に相談してください。危険です。Kさんご自身が一番お分かりだと思います。」

Kさんは返事をしなかった。

翌日、Kさんは居室に来なかった。

 

(4へ続く)

...

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自信を持って生きる (亡くなったKさんの思い出) (2)

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...

(1から続く)

 

Kさんは無口で、謎の多い人だった。13時頃の遅い時間から研究所にやってきた。乱れた衣服を着て、顔を真っ赤にしていた。

Yさんから「Kさん、道場で修行をしてるんですよ」と教えてもらった。

「何の道場ですか」

「坐禅を組んだり、滝に打たれたりするって」

「お坊さんですか..」

...

研究所で働くようになって、私の生活は安定した。起床時間が規則正しくなり、月に決まったお給料をもらえるようになった。合間合間に絵の仕事もできた。

置き去りにしてきた論文にも進捗があった。指導教員の先生とロンドン研修時の先生が、これ以上私がややこしいことになる前に、研究結果を早く学術誌に掲載して、私が博士課程の修了要件を満たせるよう尽力してくださったらしかった。私はロンドンの先生に言われるままにデータを送り、問われるままに質問に答え、心を無にして論文を修正した。徐々に動悸はおさまり、薬を飲まなくてもよくなった。絵の学校でも安定して絵が描けるようになった。個人的な製作も進んだ。

 

2015年の秋、居室の方々に展示の案内はがきをお渡しした。

「よかったら、どうぞいらしてください。絵の展示をします」

Kさんははがきの絵をじっと見ていた。それから宛名面の自己紹介を見て「この、アトリエ・サルバドールとはなんですか」と聞いてきた。

「事務所の名前です。法人と契約するとき組織名があると便利なんです」

「Webサイトもあるんですね」

「あります。SNSもあります。絵を載せてますのでぜひご覧ください」

...

それからしばらくして、食堂に向かう途中、Kさんに話しかけられた。

「あなたは、前衛的作品に興味はありますか」

びっくりした。

(前衛的作品?)

少し考えてから「前衛かどうかわかりませんが、つげ義春の『無能の人」は結構好きです」と答えた。

Kさんは「それ」と叫んで 「ゲッツ」みたいな手つきをした。

(!??)

Yさんが「え、何? 何の話?」と聞いてきた。

「知らないよねえ。漫画です。暗い。すごい暗い。それが、いいんですよ。主人公は甲斐性なしで、多摩川で石を拾ってきて売るんです」

「石?なんで?それ売れるんですか?」

「いや全然売れない」

「どういうことですか???」

Kさんは嬉しそうだった。

食堂からの帰り道も漫画の話が続いた。

「萩尾望都読むんですね。じゃあ『残酷な神が支配する』を知ってるでしょう」

「ヒッ...」

「知ってるね。名作だよねえ。あのシーン最高だったなあ。『卵を産め』って」

「 (ランチの帰りにする話じゃない...) 」

Yさんに「今度はどんな漫画?」と聞かれて、ものすごく答えに困った。

...

それから、食堂でKさんと話をするようになった。Kさんは直感が鋭く、私の言いたいことがすぐにわかるようだった。私はひどい話し下手なので、話していて助かる瞬間が多かった。専門的な話もした。Kさんは航空機に最新技術を導入する研究をしていた。私の元の専門が神経科学だったと話すと、興味深く聞いてくださった。

 ...

2016年3月、異動する研究員さんの送別会があった。お昼休憩の時間、研究所近くのイタリアンレストランに集まって、お送りする方を囲みながらKさんやYさんと話をした。

Kさんは昼間からワインを飲んでいた。

「あなた、どうして絵描きになろうと思ったんですか。前は研究者志望だったわけでしょう」

答えるのがとても恥ずかしかった。

「研究がうまくいかなくなったとき、急に、絵描きになったら全部うまくいく気がしたんです。勘違いでしたが...」

「趣味で描くのとは違うんですか」

「『絵描き』になりたかったんです。絵が描けるようになりたい、絵を描いて生きていきたいって」

「楽しいですか」

「お仕事の絵と、個人的な製作でちょっと違います。だけど、やっぱり楽しいです。思ったことを紙の上に表せるのは、すごく楽しいです。全然描けない、うまくいかないことばっかりですが。絵の学校入ったり、自習したりしてます」

「石膏デッサンやってますか」

「やってないです。絵画教室の体験でほんのちょっとやったくらいで」

Kさんは「ふーん」と言って聞いていた。

「私もね、絵描きになりたかったんですよ」

私はなんとなく、そうなんじゃないかと思っていた。

「そうなんですか」

「うん。高校の時美術部だった。楽しかったなあ。できたら絵の学校に入って、絵描きになりたかった。だけど、いろいろあってあきらめた。それからはもう、ちくしょう、見てろよって。めちゃくちゃ勉強した。絵が駄目ならいっそのこと、自分とこで一番いい大学に入って、そこの一番いい学科に入ってやるって。それで航空に入った。それからこの研究所に来た」

「飛行機はお好きだったんですか」

「うーん」

Kさんのグラスがどんどん空になるのが気になった。

 

 

(3へ続く)

...

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自信を持って生きる (亡くなったKさんの思い出) (1)

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2020年の1月、Kさんという方が亡くなった。飛行機の研究所で働いていたときの上司さんだった。

ずっと、この人との思い出を書きたいと思っていた。

私は、Kさんとの3年間の関わりを通じて「自信を持って生きる」とはどういうことかを教えてもらった。教わったからといって、自信たっぷりに生きられるわけではないことも教えてもらった。自信を持つ方法、それは「ありのままで生きる」ということ。もっと言うなら「自分を"装う"のをやめる」ということ。

Kさんはお茶目で、シャイで、とんでもない方だった。交流しているあいだに被った害がたくさんある。だけど、教えていただいたこと、与えていただいたものの方がもっとずっとたくさんある。

少しずつ書いていきたい。

 

...

研究所で働き始める1年前の2014年、私は大学院を退学して「絵の仕事」を始めた。研究者をクライアントとして、研究発表用のイラストを描いたり、異動・転勤する方への贈り物の絵を描いたり、イベント用のパンフレットを作成したりした。税務署に個人事業主の開業届を提出して、事業所の名前を「アトリエ・サルバドール」にした。当時読んでいた学術論文の謝辞欄に「We thank Salvador...」という書き出しの一文があって、なんとなく「それでいこう」と思った。当時の私は"直感"を信奉していて、何かにつけて適当な直感を元に判断を下していた。そして、直感に従い「私はもう研究をしない。何かを作って生きていく。その方が絶対うまくいく」と信じ込んでいた。

だけど、開業半年にして「何かを作る」のがもう嫌になってしまった。

まず、ものがうまく描けない。ものの形がうまく取れない。似顔絵も、チラシデザインもうまく仕上がらない。どうも何かがしっくりこない。ギリギリまで細かいところを調整しても、いつまでたっても何かがおかしく、バランスを欠いて不完全に見える。クライアントさんの反応からも「うん、まあ、これで大丈夫です。どうもありがとう」という、あまりはかばかしくない印象が伝わってくる。

自分に基礎の技術がないことが、ようやく身に染みてきた。私は、アカデミックなデッサン課程を通っていない。絵は完全に趣味だった。1年前から絵の学校に通いはじめた。だけどセツ・モードセミナーは生徒に基礎を教えない。セツは「基礎はどうでもいい。勝手に身に付く。"本当の美"はそんなものでは決まらない」というスタンスだ。足の長い、素敵な服を着た美男美女のモデルさんは、毎週好きなだけ描かせてもらえる...。もう、自学自習しかない。私は世界堂の書籍コーナーで技法書を買った。だけど、どの本もレベルが高すぎた。読まない技法書が部屋に溜まっていった。

そのうち製作の着手が遅れるようになった。昔からの悪い癖だった。心の中では「早め早めでやろう」と思っているのに、手をつけるのが遅れてしまう。「ちゃんとできない」ことへの不安から、どんどん手が付けられなくなっていく。そうして、毎回締め切りギリギリに始めてしまい、作品のクオリティを下げてしまう。いつまでたっても作ることが楽しくない。苦しみばかりが募っていく。

頭の底からはいつも "書きかけの論文" の声がする。「私を忘れないで」という...。私は博論研究と向き合えないから、単位取得退学して、絵を描く方に逃げてきた。そもそも論文が書けなくなったのだって「ちゃんとできない」ことへの不安とうまく向き合えなかったからだ。私は「博論のことを気にしているから作品の仕上がりがまずい」と思い込もうとした。そして一層落ち込んだ。

常に動悸がするようになった。朝起きてから寝るまで、延々動悸に見舞われた。絵の学校の授業中、何も描けず、カフェスペースのソファに寝転んで過ごした。友達や先生が心配して見に来てくれた。博士4年目の在学延長中、絵の学校は私の「心の救い」だった。研究室でどれだけ苦しくても、小田急に乗って絵の学校へ向かい、無心でモデルさんをスケッチするとき、生きてる感じがひしひしとした。だけどもう、絵の学校にいるのも苦しくなってきた。

あるお仕事のとき、私の要件定義のまずさが原因で「これ以上契約も製作も続けられません」という破綻的な出来事が起きてしまった。依頼主さんとの交渉は終わり、私は製作を断念した。

それでもう、何かが切れてしまった。動悸は一層ひどくなった。私は、論文から絵に逃げることで心を落ち着けようとした。なのに、今度はいよいよ絵からも逃げなくてはならないのか。

...

2015年3月、動悸を抑える薬を飲みながら、国分寺の職安に通い始めた。

職安の相談員さんに、当時描いていたポストカードサイズの絵を見ていただいた。

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「へー!面白いね。うまいかどうかはわからないけど」

「ありがとうございます...」

「これ、井の頭公園で売ったらどうかな。井の頭公園、いろんなアーティストさんがポストカードを売ってるよ。誰か買ってくれるかもしれない」

「それ、すごく楽しそうです。やってみたい。」

「いいね。それから当面の"仕事"は、一度絵から離れて、とりあえず、今持っている能力で何か稼げることを探してみたらどうだろう。何かもう少し、今までの専門を生かした職を見つけてみるとか」

「やってみます...」

相談員さんのアドバイスは的確だった。「とりあえず、今できることを無理のない範囲でやろう」と思った。

研究施設への技術員を派遣する会社に登録した。大学院時代、とてもお世話になった秘書さんの派遣元だった (この方には前々から「ますとみさん、いざとなったらうちに登録したらいいですよ。いいとこです!」と言われ続けていた。この秘書さんは、いずれ私がそうなることを予見していたような気がする。)

しばらくして最初に打診されたのが「飛行機の研究所でのデータ整理」のお仕事だった。派遣会社からの「本契約をしますか?」というメールを見て、指が震えた。吐き気がした。こんな私が、できるだろうか?また何かトラブルを起こして、ひどい迷惑をかけてしまうんじゃないだろうか?

断ってしまおうか...断ってしまいたい。飛行機なんて責任持てない。だけど、飛行機の仕事ってなんだろう。すごくレアだ。なかなかない。乗り物が好きだ。飛行機、いつか描いてみたいと思って、ずっと描けないでいる。少しでも、飛行機に近づけるならいいな。絵の資料集めにもいいかもしれない。

脂汗を出しながら「就業します。」と返信した。

2015年の4月から、お仕事がはじまることになった。

...

お仕事の初日、職場でご挨拶をした。古い建屋の小さな居室で、4名の研究者がコンピュータ作業をしていた。直属の上司のYさんは女性だった。笑顔が素敵な明るい方だった。Yさんは「じゃあ、Kさんにも紹介しますね」と言って、私をKさんのデスクへ連れて行った。

そのとき初めてKさんに会った。

第一印象はつげ義春の「無能の人」だった。ここの研究所は、ほとんどの構成員が作業用のジャンパーを着ている。その中で、Kさんだけは黒い背広にノーネクタイで、その背広の両方の袖口がほころびて、端から無数の糸が出ていた。

私は、ものすごく小さい声で「はじめまして」と挨拶した。

Kさんは目を合わせずに「はい、今日からよろしく」と言った。

Yさんが「本業はイラストレーターなんですって。絵描きさんですよ!」と言った。私は、恥ずかしくなって「一応、イラストレーターです。これでも...とてもおこがましいですが...」と言いながら、本当に辛くなって下を向いた。

「あ、そうしたら、飛行機描いてもらおう。水彩がいいな」とKさんが言った。

 ( 水彩?)  

Yさんが笑って「Kさんダメですよ!それは別料金だから!」と言った。 するとKさんは「じゃあ、もうちょっと仲良くなってから、個人的に頼もうかな」と言って、また手元の作業に戻っていった。

Yさんから「これどうぞ」と服を渡された。研究所のロゴが入ったジャンパーだった。

...

それから、私は研究所に通った。Yさんはとても親切で、仕事はとても順調に進んだ。同じ居室の2名の研究員さんとも交流するようになった。Kさんと会話することはほとんどなかった。

  

(2へ続く)

 ...

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水車小屋

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水車小屋 (22.7 x 15.8 cm)

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7月、小平ふるさと村に水車をスケッチしに行った。

施設の方の許可をいただいて、しばらく描いた。

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これ、難しいお題だ。建物だし、車輪くっついてるし、車輪動いてる。秋のイベントで「水車小屋をスケッチしよう」みたいな企画したいと思ってたけど、どうするかなあ。

とりあえず一度しっかり描いてみよう。講師が描けないと大変だ。

写真を撮って帰った。

iPadのAdobe Frescoで開く。

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幾何立体の組み合わせだから、図学的に位置が決まる。

丁寧にすれば、ぴったりいくはず。

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ここまで描いて、なんかしんどくなって、しばらく下書きのまま置いておいた。根が凝り性だから、これを始めると、凝り始めてしまってすごくしんどい。

結局、紙を小さくして描き直した。

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へろへろの線から乗せていった。 

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こんな感じ。

大きい方の紙も、今度絵の具使ってみよう。

 

 

都筑中央公園

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 都筑中央公園 (F8: 45.5 x 38 cm)

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木曜日、横浜画塾・笠井先生の教室のスケッチデーのつもりで、自転車に乗って横浜に向かったら、スケッチデーは中止だった。どうしても外が描きたくて、静物の授業時間に許可を頂いて、教室のそばの都筑中央公園を描きに行った。

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公園の中央にある遊水池。水辺はいいな。楽園みたいだ。

...

木曜日、横浜画塾を退塾した。

3年と7ヶ月、本当にお世話になりました。振り返って、私はアホで思い込みが激しく、喋るのに時間がかかり、絵は勝手に描き、言うことは聞かない、先生やクラスの方々にとって間違いなく厄介な生徒でした。すみません。受け入れてくださって、本当にありがとうございました。先生から教えて頂いたこと、様々な形で伝えて頂いたこと、クラスの方々と一緒に描く中で感じたことを、大事に心に留めて、また描いていきます。

 

昔の郵便局舎

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昔の郵便局舎 (A5スケッチブック)

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お電話を頂いた。

「小平市役所の者です。BlogとTwitterを見ております。」

「えっ???」

「『小平ふるさと村』をご存知ですか。」

「最近、地図で見かけて、描きに行きたいと思っておりましたが...」

「私、ここの施設管理をしております。イベントの開催にご興味はありますか」

「イベント...イベントですか」

「良かったら、一度お話しさせて頂けませんか。」

「勝手がわかりませんが、明日スケッチに伺います。よろしくお願いします。」

...

それで、きょうお伺いした。

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小平ふるさと村。東京都・小平市の古民家保存施設。明治41年(1908年)に建てられた郵便局舎や、原野開拓時代の住宅や資料がある。イベントスペースもある。

最近、緑道で木をしばらく描いたあと「建物を描いてみたい」と思って、Googleマップで玉川上水の近くを探していた。この間、偶然見つけて、近いうちに行こうと思っていたところだった。お電話いただいて本当にびっくりした。

...

事務棟に入って、お電話くださった方にご挨拶した。5年前、市民協働イベントのパンフレット製作をお手伝いした時に名刺交換した方だった。 お声掛けくださりありがとうございます。。

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画面に自分のポストカードが写ってる...。なんだろう。すごい不思議な感覚がする。

状況が落ち着いたら、こちらで何かイベントをするかもしれない。

...

園内を散策した。

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茅葺のおうち。涼しげだ。

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水車小屋がある。水車いいなあ。回ってるのを見るのが楽しい。

小平一帯、玉川上水ができるまで、ほぼ未開の地だったらしい。雨が降っても、関東ローム層がすぐ水を吸ってしまうので、水田で米を育てるのに十分な水を溜めておけなかったそうだ。江戸時代、玉川兄弟が玉川上水を引いたあと、上水からの分水路を増やしたことで、畑ができて人が住めるようになったとか。ここは玉川上水あっての土地みたいだ。

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郵便局の建物。西の方から移築されてきた。

赤屋根いいなあ。最初から絵みたいだ。

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じゃあ、スケッチいってみよう...。

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昔の郵便局舎。

近いうちにまたお伺いする。今度は水車を描こう。

 

Blogの更新を少なくします

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2016年にBlogをはじめて以降、絵を描くたびにBlogを一つ上げていたんですが、更新頻度を落としてみることにしました。
最近、絵を描いている途中から、頭の奥で「言葉が目立つ」ような、絵が文章の存在を前提にしているような、ちょっと妙な気持ちになることが多くなり、絵と文章を毎回セットにするのを止めてみたらどうなるか、興味が湧いてきました。絵も変わったりするのかな...。私は文章を書くのが好きなので、Blogもまた書いていきたいです。お気付きのことがありましたら、ぜひお知らせくださったら嬉しいです。

 

  

玉川上水緑道

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玉川上水緑道 (33.2 x 24.2 cm)

...

玉川上水に行ってきた。

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玉川上水の若木は幹がひょろ長くて、緑道にまっすぐ枝を突き出してくる。木の多いところに落ちたどんぐりは、芽吹いてすぐに丈を伸ばさないと、先に伸びた木に光を奪われて成長できない。結果、上水沿いにはすぐに幹が伸びる木ばかりが残る。道に向かって突き出した枝が多いのは、道には大木がないので光が取りやすいからだ。木は、光がよく当たる枝だけ大きく育て、光の当たらない枝は枯らすらしい。 (このWebサイトがとても勉強になった。:  木の形作りと資源獲得

木を見ると「必死に生きてるんだな」と思う。

私は、何か明るいものがあると、暗い側を見たくなる。こもれびを見るときも、こもれびの「少し暗い側」を見たくなる。こもれびの形は、木々が競争し、光を取り合った結果だ。「さわやかに描いた方がいいのかな」と思いつつ、私はどうしても、そちら側が描きたくなる。

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きょう、そんなことを考えながら描いていたら、虫取り網を持った男の子が「うおー!なんだ!!ゲージュツ家がいる!ゲージュツ家だ!」と言いながら、こっちに向かって走ってきた。「え?え?」と言ってるうちに、網を持った3人の男の子に囲まれてしまった。

「ゲージュツ家じゃん!絵描いてるよ」

「おれ、こういうところで絵描いてるやつはじめて見た」

「いるところにはいるんですよ (やつってなんだよ...)」

「木描いてる」

「木じゃん。なんかすげえなあ」

「うん。すげえ。これすげえよ」

...

「よくわからんけど、なんかすごい」と思ってもらえるなら、とても嬉しい。

これからも、色々ごちゃごちゃ考えて、よくわからない絵を描くだろうけど、感じたこと、思ったことを素直に描いていきたい。

 

玉川上水緑道

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玉川上水緑道 (33.2 x 24.2 cm)

...

玉川上水に行ってきた。

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「透けて光ってる葉っぱ」を持ち帰ってきた。忘れないようにしよう。

木の幹が難しい。筆でピッと線を引いてみるけど、木っぽくならない。こすったり色を重ねたりしながら、幹にしようとしてみた。やるだけやったけど、帰って見てみるとまだちょっと違う。幹は、もう少ししっかりしてる。

 

玉川上水緑道

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玉川上水緑道 (18 x 14.5 cm)

...

玉川上水に行ってきた。

笠井先生から教えて頂いた「緑道の横から張り出した枝と葉」の描き方を試してみた。一回描いたところを水で拭き取って、ガッシュの絵の具で調整した。

描いてる時、とにかく必死だ。ずっと同じ場所にいるのに、見るものも考えることも、やることも毎回変わってくる。同時にたくさんのことが起こる。雲が太陽を隠している間、紙に置いた水が乾かない間、しばらく待ってまた描くのに戻ると、こもれびの形がまるで違ってたりする。さっき明るく塗り残した葉っぱも、木影に入って暗くなったりする。

こういう「変化する風景」を描くのが楽しくなってきた。色々なもの・ことが時々刻々と変わるけど、変わらないものやこともあるから、それを見つける。 遠くに行けるようになったら、同じようにやってみたい。海とか。もっと大変かな。

 

笠井先生

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 横浜画塾・笠井先生の教室のスケッチデーだった。本当は緊急事態宣言が明けるまでお休みしようと思っていたけれど、グループラインで「テーマは"木漏れ日"です」と予告があって「それは行かざるをえない」と思って行くことにした。

デモンストレーション制作を後ろから拝見した。ソーシャルディスタンスを取ろうと思って、離れたところにいた。

ちょっと後ろ姿を描かせて頂いた。休憩中の先生にお見せしたら「足が長く描いてあるよー!」と笑ってらした。癖が出た。私はつい人の足を長く描いてしまう。

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先生に「緑道でよく見る、道の端からちょっと出てる枝がうまく描けないです」とお話したら、すぐに絵の中に描いてくださった。

 
 
 
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自転車の左斜め上。「あの枝だ」と思った。いつも緑道で描こうとして、なかなかうまくいかない「あの枝」が描いてある。すごい。

コツを教えて頂いた。今度やってみよう。

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クラスの方々のスケッチがとてもきれいだった。自分のスケッチは、よくわからなくなった。緑道と木漏れ日を描きに来て、何描いていいかわからなくなった。(「あの枝」も描いてない。)

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らくがき。

 

 

スケッチ

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スケッチ。F4の紙の隅に描いた。

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大原写生会オンライン2021が終わった。

セツ・モードセミナーの長沢節先生を描いた。

5/29(土)のオンライントークイベント中、登壇者の方が見せてくださった写真から描いた。お会いしたことのない、セツ先生。

私にとっては、やっぱり大原スケッチは「在学中行くことができなかったイベント」で、セツ・モードセミナーの大事な思い出だ。私が入学したのは2013年、学校の大会は2011年から休止されていた。

大会の主催者の方とZOOMでお話した。 「"セツのイベント"というところから離れて、もっと輪を広げたい」とおっしゃっていた。確かに、Googleストリートビューで見て描いて、Twitterのハッシュタグで参加するなら、世界中どこからでも参加できる。色々な人が関われる。

だけど、私は「セツにいたこと」の思い出として、あの学校に関わった人だけで会が閉じていてほしい気持ちがある。

落ち着いたら大原に行って絵を描きたい。