一筆描きの車

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長沢節先生の「わたしの水彩」という本がある。閉校した画学校、セツ・モードセミナーの教科書のうちの一冊だった。

セツに入学した頃、人物画の教科書「デッサン・ド・モード」と一緒に購入した。校舎のカフェスペースのテーブルで友人や先輩と一緒に読んだ。「かっこいい」「オシャレ」「どうやったらこんな風に描けるんでしょうね」と言い合ったりした。

私はどうしても「わたしの水彩」の中の絵を良いとは思えなかった。特に表紙の絵について「本当にひどい」と思っていた。一筆で殴り描いた箱のようなものが、画面上にたくさん散らばっている。それが車だとわかるのに時間がかかった。筆致はざっくりしていてかっこいい。でも何が何だかわからない。車が止まっているのか、動いているのかわからない。車のボディは透けたりしないし、透けた向こうから下の道路が見えたりはしない。これは、私の知っている「車」とは違う。この絵を描いた人は、車のことを「どうでもいい」と思っている。もっと言うと、よく分からないまま中途半端に描いている。

そうテーブルで話したら「セツ先生がこういう風に描いてるってことは、多分きっと、これでいいんじゃないかな」と先輩が言った。「そんな風には思わないです」と答えてテーブルが妙な空気になった。

先輩の言う通りなのかもしれない。タブロー (絵画) は閉じた別世界で、内側で何が起こるかは描いた人間だけが決めていい。本の名前も「わたしの水彩」で、セツ先生がセツ先生の思う水彩のことを話している。実際先生が車のことを「どうでもいい」と思っていたとしても、例えば技術的な問題で中途半端に描いたとしても、多分それこそどうだっていい。その絵は、セツ先生の絵なんだから。「こんな絵はだめだ。描く以上もっと対象と真面目に向き合わねばならん」なんて言わない (以前公園で絵を売っていたとき、たまたま通りかかったデッサンの先生からこういう言われ方をしたことがある)。

セツ先生は遠い昔に亡くなっている。線の細い美男美女が大好きで、モデルとしてアトリエに呼んで、生徒と一緒にただ描いたらしい。くるぶしの骨の浮いているところをきちんと描かなかったら、生徒に怒るだろう。それで、建物をきっちり描こうとすると「窓の数なんていちいち数える必要はない」と怒る。それはもう、それでいい。好きなもの、描きたいものが全然違う。生徒が自分の絵をどうするかは、生徒の問題で、生徒が決めなくちゃならない。

...

落ち込んでいる。昨日、笠井先生の教室でヨットの模型とひまわりを描いたとき「形がうまく描けないものを、洒脱っぽくごまかして描く」を自分が平気でやろうとしていたことに気づいてしまった。特に興味のないものを描いているならともかく、好きな乗り物を描こうとしているのに、それをやらかしていたことがとてもこたえた。

落ち込んでいる暇があったら手を動かせという話だけど、何からはじめていいか分からず、なぜか文章を書いている。これは、手を動かしたうちに入るんだろうか。何もしないよりはましなのか。そのうち「わたしの水彩」を思い出して、本棚の奥から引っ張り出して読んでみた。特に感想は変わらなかった。納得すること、はっとすることがたくさん書いてあった。それでも、表紙の絵に対する自分の感想は変わらない。

ごまかすと決めたらごまかしきる。他人も自分も最後まで騙しきる。そういう覚悟を決めてしまった人は、強烈な魅力を放つようになる。セツ先生は間違いなくそういう人で、セツ・モードセミナーはそういう学校で、セツ先生の水彩画はそういう水彩画だったと思っている。

 

新装版 デッサン・ド・モード 美しい人を描く

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新装版 わたしの水彩

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