ユリの研究 (3)

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ユリの研究。はがきサイズ。

6つついていたつぼみが徐々に開いてきた。おおよそ1日に1つ咲く。咲くたびにおしべを取っている。

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ユリについてのWebサイトを読んだ。

ユリは江戸末期以降、日本から海外へ多く輸出され、珍重されていたそうだ。現在花屋で流通する品種改良されたユリは、日本と中国の野生種を源流に持つものが多いらしい。

hanajikan.jp

古くは『古事記』『日本書紀』にも登場し、奈良時代には歌にも多く詠まれました。園芸が大流行した江戸時代には、園芸品種のスカシユリが百数十品種も誕生。ユリは日本人に愛されてきました。

そんなユリを江戸時代の末期、アジサイなどの植物と一緒にヨーロッパに持ち帰ったのが、かのドイツ人医師シーボルトでした。カノコユリ、テッポウユリ、スカシユリなどの球根が海を渡りました。チューリップの球根1球が高級邸宅の価格に匹敵した、17世紀前半のチューリップ狂時代には及びませんが、カノコユリは宝石のルビーに例えられ、同じ重さの銀と同等の価格で取引されたとか。 ‟日本のユリは際立って美しい”と言われ、人気を呼びました。

江戸末期には、早くも外国人商館によるユリの球根貿易が始まります。横浜や静岡周辺の山で採取されたヤマユリ、ササユリ、オニユリなどが、横浜港から輸出されました。

明治に入ると日本人による貿易会社が誕生。ユリを描いた海外向けのカタログを制作し、種類豊富な日本のユリを紹介しました。明治時代の末、輸出球根の筆頭はヤマユリからテッポウユリに代わり1937年にピークを迎えます。全種類で4千万球以上を輸出し、世界のユリ需要の90%を日本のユリが占めたほど。ユリは生糸に迫る外貨獲得の花形になり、“ユリで軍艦を造った”といわれるほど日本の経済力、国力に影響を及ぼす存在となりました。

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貿易の歴史は面白い。