自信を持って生きる (亡くなったKさんの思い出) (2)

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(1から続く)

 

Kさんは無口で、謎の多い人だった。13時頃の遅い時間から研究所にやってきた。乱れた衣服を着て、顔を真っ赤にしていた。

Yさんから「Kさん、道場で修行をしてるんですよ」と教えてもらった。

「何の道場ですか」

「坐禅を組んだり、滝に打たれたりするって」

「お坊さんですか..」

...

研究所で働くようになって、私の生活は安定した。起床時間が規則正しくなり、月に決まったお給料をもらえるようになった。合間合間に絵の仕事もできた。

置き去りにしてきた論文にも進捗があった。指導教員の先生とロンドン研修時の先生が、これ以上私がややこしいことになる前に、研究結果を早く学術誌に掲載して、私が博士課程の修了要件を満たせるよう尽力してくださったらしかった。私はロンドンの先生に言われるままにデータを送り、問われるままに質問に答え、心を無にして論文を修正した。徐々に動悸はおさまり、薬を飲まなくてもよくなった。絵の学校でも安定して絵が描けるようになった。個人的な製作も進んだ。

 

2015年の秋、居室の方々に展示の案内はがきをお渡しした。

「よかったら、どうぞいらしてください。絵の展示をします」

Kさんははがきの絵をじっと見ていた。それから宛名面の自己紹介を見て「この、アトリエ・サルバドールとはなんですか」と聞いてきた。

「事務所の名前です。法人と契約するとき組織名があると便利なんです」

「Webサイトもあるんですね」

「あります。SNSもあります。絵を載せてますのでぜひご覧ください」

...

それからしばらくして、食堂に向かう途中、Kさんに話しかけられた。

「あなたは、前衛的作品に興味はありますか」

びっくりした。

(前衛的作品?)

少し考えてから「前衛かどうかわかりませんが、つげ義春の『無能の人」は結構好きです」と答えた。

Kさんは「それ」と叫んで 「ゲッツ」みたいな手つきをした。

(!??)

Yさんが「え、何? 何の話?」と聞いてきた。

「知らないよねえ。漫画です。暗い。すごい暗い。それが、いいんですよ。主人公は甲斐性なしで、多摩川で石を拾ってきて売るんです」

「石?なんで?それ売れるんですか?」

「いや全然売れない」

「どういうことですか???」

Kさんは嬉しそうだった。

食堂からの帰り道も漫画の話が続いた。

「萩尾望都読むんですね。じゃあ『残酷な神が支配する』を知ってるでしょう」

「ヒッ...」

「知ってるね。名作だよねえ。あのシーン最高だったなあ。『卵を産め』って」

「 (ランチの帰りにする話じゃない...) 」

Yさんに「今度はどんな漫画?」と聞かれて、ものすごく答えに困った。

...

それから、食堂でKさんと話をするようになった。Kさんは直感が鋭く、私の言いたいことがすぐにわかるようだった。私はひどい話し下手なので、話していて助かる瞬間が多かった。専門的な話もした。Kさんは航空機に最新技術を導入する研究をしていた。私の元の専門が神経科学だったと話すと、興味深く聞いてくださった。

 ...

2016年3月、異動する研究員さんの送別会があった。お昼休憩の時間、研究所近くのイタリアンレストランに集まって、お送りする方を囲みながらKさんやYさんと話をした。

Kさんは昼間からワインを飲んでいた。

「あなた、どうして絵描きになろうと思ったんですか。前は研究者志望だったわけでしょう」

答えるのがとても恥ずかしかった。

「研究がうまくいかなくなったとき、急に、絵描きになったら全部うまくいく気がしたんです。勘違いでしたが...」

「趣味で描くのとは違うんですか」

「『絵描き』になりたかったんです。絵が描けるようになりたい、絵を描いて生きていきたいって」

「楽しいですか」

「お仕事の絵と、個人的な製作でちょっと違います。だけど、やっぱり楽しいです。思ったことを紙の上に表せるのは、すごく楽しいです。全然描けない、うまくいかないことばっかりですが。絵の学校入ったり、自習したりしてます」

「石膏デッサンやってますか」

「やってないです。絵画教室の体験でほんのちょっとやったくらいで」

Kさんは「ふーん」と言って聞いていた。

「私もね、絵描きになりたかったんですよ」

私はなんとなく、そうなんじゃないかと思っていた。

「そうなんですか」

「うん。高校の時美術部だった。楽しかったなあ。できたら絵の学校に入って、絵描きになりたかった。だけど、いろいろあってあきらめた。それからはもう、ちくしょう、見てろよって。めちゃくちゃ勉強した。絵が駄目ならいっそのこと、自分とこで一番いい大学に入って、そこの一番いい学科に入ってやるって。それで航空に入った。それからこの研究所に来た」

「飛行機はお好きだったんですか」

「うーん」

Kさんのグラスがどんどん空になるのが気になった。

 

 

(3へ続く)

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