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(6から続く)
飛行機の絵をKさんに渡した後、私はKさんに「絵を描きませんか」と勧めないようになった。そのかわり、個人的な製作をいくつか進めた。
2017年4月に入って、新しい仕事が始まった。Sさん、私、Kさん、研究所内外の方々と連携して、シミュレーションの結果をグラフに落としこむ作業をした。仕事中、Kさんの態度は厳しかった。時に理不尽と感じるような言動もあった。お昼の休憩やお茶をする時の柔らかい表情と比べて、仕事中のKさんは人が違うような感じがした。Kさんの中には、そういう「すみ分け」があるのかもしれなかった。
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午後3時、休憩スペースでお茶をしていた時、Kさんが絵の話をした。
「絵の学校は、今も行ってるんですか」
「セツ・モードセミナーは、先日閉校したんです」
「閉校?学校がなくなったってことですか」
「はい。開校100周年で、閉じることにしたみたいです」
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別の日、Kさんがまた絵の話をした。
「今までに禅画を見たことはありますか」
「禅画、この間見に行ってきましたよ。上野で展示があった時に。Kさんのおすすめで」
「...あれ?」
「話しませんでしたっけ、白隠禅師の達磨がすごいギョロ目で...」
「そうだったかな」
Kさんはしばらく黙っていた。
それからまた話しだした。
「あれだけ描けるならいいですよね」
私は「もう一回くらい、絵を勧めてみようかな」と思った。
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別の日、休憩スペースに月光荘の8B鉛筆を持っていった。
「この鉛筆、面白いんですよ。この間展示をしてきた、月光荘画材店の鉛筆です。最近よく使ってるんですが、不思議な線が描けます。8Bです」
「8B、またずいぶん濃いですね。聞いたことないです」
「ちょっと触ってみませんか」
「うーん」
「こんな感じで描けるんです」
手元のスケッチブックに線を引いた。
「確かに、面白い線が出ますね」
「鉛筆とコンテのあいのこみたいな感じです。色々な線が引けます」
「しかし、よくそういう単純な線で『ひこうきらしきもの』が描けますね」
「これ、私も結構不思議で、脳の不思議だと思います。意外と『ひこうきだ』って分かるんですよね」
「なぜでしょうね」
「概念は脳の中で、こういう線画に近い情報として保存されているのかなと」
「ふーん。ところで、船は描けますか」
「船、船ですか」
「帆船とか。私、飛行機より船が好きなんですよ」
「ちょっと待ってください。海賊船みたいな船ですか」
「そう。帆があって、3本くらい棒が立ってて、それからこの船首あたり、女神の像がついてるんです。あ、それだと違う」
Kさんは鉛筆を取って、急にさらさらと絵を描きだした。
しばらくして「案外、描けないな」と言って鉛筆を手離した。
「もっと描けると思ってたんだけど」
「すごくわかります」
「サラサラ、とはいかないんだなあ」
「やっぱり、頭の中に入ってないもの、良くわかってないものは描けないんです。今はネットがあるので、画像検索で写真が集まって便利です。昔のイラストレーターさん達は資料集めるだけで相当大変だったそうで」
「しかし、こんなに描けないとはなあ。そもそも手が動かない」
「私、まず丸とか線とか、そういう単純なものをたくさん描く練習しました」
「単純図形の練習ですか」
「はい。学校入りたての頃、まともな線が引けなさすぎて、行きの電車の中でスケッチブックに直線、丸、三角とかS字の線とか、とりあえずそういうものをたくさん描いて過ごしました」
「丸...」
Kさんは、鉛筆を取って丸を描きだした。それから、丸を閉じるとき、手を震わせた。
「ああ、違う」
「え?」
「こうじゃない」
Kさんは、丸の隣に渦巻きを描きだした。
それから、ぽつりと言った。
「メイルシュトローム」
それから、また別の渦巻きを描きだした。
「メイルシュトロームだ」
「何ですか」
「メイルシュトローム」
そしてまた渦巻きを描いた。
「メイルシュトローム」
「何なんですか、それ」
「ということは、君はエドガー・アラン・ポーを読んだことがない」
「ないです。名前しか知りません」
「読むといいですよ。ポーの短編に『メイルシュトロームの恐怖』という話があります。私は子供の頃読んで、とてもイマジネーションを掻き立てられた」
「どういう話なんですか」
「船が大渦に飲み込まれる話です。渦の名前がメイルシュトローム」
「船はどうなったんですか」
「どういう話だったかな。兄弟の乗る船が大渦に飲まれた。兄は戻って来られなかった。弟は脱出して語り部になった」
それからまた「メイルシュトローム」と言って渦巻きを描いた。
スケッチブックは渦巻きだらけになった。
私は、閉じない渦巻きを見ながら、上野の展示で見た禅画の円相図を思い出した。
円は「完全なるものの象徴」だという。じゃあ「渦巻き」は何の象徴だろう。
帰りのバスの中で、延々と考えていた。
Kさんと話していると、絵心を掻き立てられる感じがする。それと同時に、自分の描く絵が、暗い方、光から遠い方へ引きずられていく感じがする。自分の内側にある不安や恐怖が、増幅されて形を持って沸き出すよう、うながされている感覚だった。
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(8へ続く)