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(7から続く)
新しい仕事は難航していた。
私とSさんは、Kさんがいない時に居室で状況を相談しあった。
「私たち、いっそ、できないことはできないって、Kさんに言った方がいいと思うんです」
「そんなこと簡単に言えませんよ。"できない"って言ったら、"能力がない"って思われちゃうんじゃないか、とか...そうしたら職を失っちゃうんじゃないか、とか... 僕は、向こうの家族を路頭に迷わせるわけにいかないんです」
Sさんは中京地域から単身赴任で東京に来ていた。
「そうですよね」
「だけど、今来ている仕事は量もとてつもないですし、内容も難しすぎます。実験設備の仕事も任されているから、これ以上難しい仕事が増えたら、もう手が回りません」
「Yさん、早く戻ってきてほしいですよね」
「そうです。来年Yさんが戻ってくるまで、何とか踏ん張りたいです」
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組織外の研究者の方を交えたミーティングの後、Kさんと話した。
「この仕事は、私が担える仕事ではありません」
「そんなことはない、あなた方の仕事ですよ」
「私は、Kさんが何を探しているのかわかりません」
「ですからずっと、何らかの"兆し"だと言っているでしょう」
「何らかの"兆し"って何ですか」
「兆しですよ。何かが起こるのです。それは、はっきりとはわからない」
「起こる何かって、何ですか」
「わからないのです。でも起こる。何かが始まる"兆し"が確かにある」
「...」
「そうした"兆し"を捉えるすべを磨くのが、このプロジェクトの趣旨です」
それからKさんは「あなたならわかると思ったのに」というようなことを話した。
このやりとりで、私の "引き金" が降りてしまった。
「嫌になりました」
「...」
「あなたは、ご自身の目でデータを見ない。グラフを描かない。私達に何か探せと指示をする。でも、何を探しているのかはわからない。あなたご自身がわからないまま、私達に『とにかく何か探せ』と言う。それで『見つからない』と言って落胆し、私達の責任にする。やってられません」
Kさんは黙っていた。
「力学に詳しいのはKさんです。少なくとも私はにわかです。あなたが見当をつけることなく、なぜSさんや私が、まだ誰も見もしない、知りもしない、あるかどうかもわからない"何らかの現象"を探しているんですか」
「...」
「大規模データの取り扱いを、一度でもいいからあなたがやればいいんです。まず、グラフを描いてください。Yさんでも、Sさんでも、私でもなく『あなたが』描けばいいんです。そうしたら、私達が今どれだけ茫漠としたところに放り込まれているか、すぐわかるはずです」
Kさんは黙ったままだった。
私は心の中で決めていたことを伝えた。
「来期、私はいないものとして進めてください」
「ああ、そうですか」
「今日は失礼します」
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帰りのバスの中で、今日起きたことを反芻した。
私は「自分の代わりに、自分の大事なことをさせようとする人間」のもとで働くことができない。怒りを溜め込んで引きこもったり、感情的になったりして、これまでも頻繁にトラブルを起こしてきた。
自分はやらないのに、人に多大な期待をかけて、できないとけなしてくる行為が大嫌いだ。そういう人間の心理が痛いほどわかるから余計嫌なのだ。自分の嫌なところを見せつけられている気持ちになるのだった。
自分がやらずに人にやらせていれば「自分ではやらないけど、やればできるつもり」でいられる。自分でやるのが嫌なこと、やる自信がないことと向き合わずに、ただ結果だけを受け取れる。「やってみたけどできない」恐怖から、うまく目を背けていられる。
そうすることで、心の中の「理想通りの完璧な自分」が壊れないように守っているのだ。そんな「完璧な自分」への期待をそのまま人に渡しているから、要求のレベルは異常に高い。「できて当然」と思っているから、できたことを褒めたりしない。感謝もしない。むしろ「私よりできるなんて」と苦々しく思う。そして、期待通りの働きがなければ、大いにけなしてくる。
おそらく、かつて自分がされて嫌だったことを、そのまま人にやっているのだ。「高い期待に応えられない」状況を、破滅的なできごととしてとらえているのだ。「やってみたけどできない」事態を、なんとしてでも避けたいのだ。
嫌な考えばかり頭に浮かんだ。
Sさんのことを考えた。Sさんはじっと堪えている。私みたいにいきなり職場でキレたりしない。自分と家族の生活のため、粘って仕事を続けている。
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翌日、Kさんはずっと黙っていた。
Sさんがいなかったので、居室はとても静かだった。
午後3時、お茶の時間になった。
ブルボンのアルフォートを持っていった。
「おやつを持ってきました」
「これ、花輪和一が『刑務所の中』で食べてたやつですか」
「読んだことないんです」
「今度貸しますよ、って、あ、ああ、この前、あの本は捨てちゃったんだ」
「...」
「先日、自宅の断捨離をしたんです。色々処分した。ああ...あの本...なんで捨てちゃったんだろう。捨てなければ良かったのになあ...」
「本ならまた買えますよ。Amazonで買ったらいかがですか」
「まあ、そうですね」
「どんな内容ですか」
「刑務所生活のルポ漫画です。描写がとにかく細かい。特に、食事シーンがいい。休憩時間、配給のアルフォートの数を数えて大事に食べてましたよ」
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お茶を飲みながら、Kさんが言った。
「あなたみたいにプログラムができるのはいいですね」
「学生時代、スキルは裏切らないと思って必死に身につけました」
「どうやって勉強したんですか」
「低レベルの参考書を複数買って演習しました。わかる範囲が増えたら、前よりレベルの高いものをまた複数買って...それを繰り返しました。でも、一番伸びたのは海外研修の頃です」
「海外行ったって言ってましたね」
「ロンドンに行ってきました。英語が話せなくて、全然研究ディスカッションできなかったんです。喋れないし聴けないから、とにかく大変でした」
「ああ」
「それで、せめて実験用のプログラミングはしっかりやって "会話できてないけど内容はわかってます" アピールをしたかった。あの時の実践でかなり伸びました。研究は、最終的にとてもこじれました」
「私もドイツ行ってたことがあるんですよ。楽しかったな」
「ドイツ語、覚えるの大変でしたか」
「まあなんとかなりました。案外、なんとかなるもんですね」
「Kさん、プログラミングも、やってみたらいいと思うんです」
「...うーん」
「やってみたら、案外できたりします。私も最初めちゃめちゃでしたが、いろいろやってるうちになんとかなりました。それを生かして、今もお仕事させていただいてます」
「私、構えちゃうんですよ」
「めちゃめちゃわかります」
「...」
「だけど、案外やってるうちになんとかなるんです」
「そうですかねえ」
「ここ数年『やってるうちになんとかなる』って実感する機会が増えました。こちらの研究所でのお仕事をいただいた時も、本当怖かったんですが、勢いで働きはじめて、今はとても良かったと思っています。絵もそうです。途中だいぶきつかったですが、手が進むようになりました」
「良かったですね」
「思うんですが、やらないでいると怖いことも、やると怖くなくなるんです。失敗して痛い目にあったりもするんですけど、怖いのは格段に減って、次以降、動きやすくなるんです」
「ああ」
「プログラミング、いかがですか。奥深いですよ」
「いいですね」
「ぜひ」
「そのうちやるかもしれません」
冬になった。
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(9へ続く)