少し前に描いた絵。
無口な絵描きに憧れがある。「絵が語る」ような人。自分はどうも饒舌で、いつもべらべら喋っている。それもだいたい「背後の理屈」を説明しようとする。役に立つこともあるけれど「無粋なことをしている」と感じる。喋るのをやめたらどうなるだろう。また「喋るのをやめて気づいたこと」なんて記事でも書くのか...。
サン=テグジュペリの砂漠。いつか砂漠を見に行きたい。
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学校の友達からのおすすめで、サン=テグジュペリの随筆「人間の土地」(堀口大學訳) を読んだ。飛行機乗りの僚友の遭難と死、フランス支配地域で見た奴隷の運命、第二次世界大戦前夜のヨーロッパの空気、自分自身の砂漠での遭難について、詩のような言葉で語られている。
ぼくはとある砂丘に登って、東に向って腰をおろす。もしぼくが誤っていないとしたら、<それ>は、もうすぐ来るはずだ。
やがてしばらくしたら、ぼくらは、この火の中、砂漠が吐き出す炎の中で、離陸するはずだった。
しかしいま、ぼくの心を動かすのはそんなことではない。いまぼくを原始的な悦びで満たしてくれているのは、天地間の秘密の言葉を、言葉半ばで自分が理解した点だ。未来がすべて、かすかな物音としてだけ予告される原始人のように、ある一つの足跡を自分が嗅ぎつけた点だ、この天地の怒りを一羽の蜉蝣の羽ばたきに読み取った点だ。
7章「砂漠のまん中で」で書かれる、彼自身の遭難の経験。
ああ、水!
水よ、そなたには、味も、色も、風味もない、そなたを定義することはできない、人はただ、そなたを知らずに、そなたを味わう。そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ。
この本は倒置が多かったり「かれ」「それ」の指す対象がはっきり決められなかったり、意味の区切りと関係しない読点が打たれていたり、多義的な単語が多かったりして、内容を読み取るのがとても難しい。原著が読めないので確かなところは分からないけれど、元の文が詩的だから、別の言語に置き換えるのが難しいのだと思う。フランス語が読めたらなあ。
それにしたって「人間の土地」という訳題はどうなんだろう。「土地」という語は、なんというか、住宅建築とか遺産相続のような生活的で卑近な話題を想像させる。飛行機から眺める地球の姿や、砂漠で見るオアシスの幻を語るのに。原題は「Terre des hommes」なので、それならせめて「人間の地」とか「人間の大地」という訳の方が雰囲気に合うのではないか...と読み進めながら考えていた。
ただ、最終章「人間」を読んで、「土地」の訳もまた良いのかもしれないという気持ちに傾いた。 章のはじめに語られているのは、サン=テグジュペリがマドリード戦線で出会った、出撃間際の軍曹のエピソードだった。
きみはぼくに身の上話をしてくれた。バルセロナのどこやらの、貧しい出納係として、きみは以前、数字を並べていたのだった。きみの国が、二つに分かれて、争っていることなどは、たいして気にもせずに。ところが、第一の同僚が志願した、ついで第二、ついで第三。するときみは、自分が不思議に変ってきているのに驚いた。きみの仕事がしだいにくだらなく思われてきた。きみの喜びも、きみの悲しみも、きみの日常の安楽も、すべてが昔の時代のもののように感じられてきた。
きみの同僚の一人の死の知らせが来た。マラガの付近で、戦死したのだ。きみが、彼のために復讐を思い立つような種類の、これは友人ではなかった。政治のことはどうかというに、これは一度も、きみの心を乱したことはなかった。それなのに、この死の知らせが、きみの上を、きみの狭い運命の上を、海の突風のようにすぎた。その朝、一人の同僚が、じっときみを見つめながら言うのだった、
-- 行こうか?」
-- 行こうよ」
そして、きみらは、<行った>のだった。
この後サン=テグジュペリは、軍曹が戦場に立つまでの心の動きを、野鴨や羊の行動を挙げて説明しようとする。例え話が長過ぎるうえに、はっきり書かれていないから断言はできないのだけれど、自分が読む限り、筆者が暗に言いたかったのは「軍曹が出撃を決めたのは、人間のうちに組み込まれた本能の発現によるもの」ということだと思った。この解釈が正しいなら、はっきり書かない気持ちはよく分かる。「戦争が人間の本能」というのは絶望的な宣言だから。それを記すのはとても辛い。
8章2節は次の段落で終わる。
きみの心に、この出発を促す種を蒔いたかもしれない政治家たちの大言壮語が、はたして真摯であったか否か、また正当であったか否か、ぼくは知ろうとも思わない。種が芽を出すように、それらの言葉がきみの中に根を張ったとしたら、それは、それらの言葉が、きみの必要と一致したからだ。それを判断するのはきみ一人だ。麦を見わける術を知っているのは、土地なのだから。
それで私は、Terre des hommes が、人間が支配する土地というだけでなく「人間の内なる土地」も意味するのだと理解した。
書きたいことはまだたくさんある。砂漠の絵もまた描きたい。
ちょっと前に描いた一枚:「人工知能のつくり方 (how to create an artificial intelligence)」。
人類を凌駕する脅威の情報技術も、誰かが必死で作ってるんだよ、と思う。
酒場スケッチ 1 : メガネの人。髪の部分は友達が描いた。上の方がやぶけている。
他で酒を飲んだ深夜、ごく稀に立ち寄るバーがあります。だいたい自分と近い年代の音楽好きの人々が、ひたすら飲んだくれたり、DJブースで適当に好きな曲をかけたり、ひたすらフライドポテトをつまんだりしている。そのバーでのスケッチ達。大概、お店の人やお客さんを描き散らしている。普段あまり出ない表現が出る気がする。その場のノリであげてしまうので、ほとんど手元に残っていない。実際 (クオリティ的な意味で) 大丈夫なんだろうか。また行きます。色々描くよ。
酒場スケッチ 2 : DJブースでiPhoneを見ている女性。酒か何かが描いてあるが、機材周りは水モノ御法度のはず...勢い描き加えているのかもしれない。
きょうのスケッチ: 通学している絵の学校の同級生さん。素敵な雰囲気だったのでお願いしてモデルになってもらいました。(ありがとうございます。)
通っている絵の学校「セツ・モードセミナー」は、来年 (2017) の春に閉校するのだそうです。なんとなく「いつかはそうなる」という予感がありました。ずっと昔はカリスマの先生とお弟子さんが中心となって運営していたのですが、 その先生が亡くなって以降、現世を漂うようにぼんやりと続いていたのでした。素敵な友達とたくさん出会えた、思い出深い場所です。
人から「好きな色は?」と聞かれるとき、
ガンボージの黄色。しかし残念なことに草木から取った本物のガンボージの色を知らない。ガンボージは有毒かつ退色しやすいため、現在は使われていない。画材製造各社で代替品が検討されている。自分はウィンザー&ニュートン社が安定な有機顔料2種を混合して新造した「ニューガンボージ」を愛用している。ホルベイン社の「ガンボージノーバ」は安価で手に取りやすいが黄色・赤色ともにウィンザー&ニュートンと異なる有機顔料で調合されている。呈色の様子も水に溶かしたときの挙動も全く異なる。比較的平面塗りがしやすい利点がある。用途に応じて使い分けるのが良い。
というフレーズが湧いてきます...うんちくまみれな上妙にえらそうでいやらしい。「黄色が好きです。あなたは?」と答えれば、それで話は終わるのに...。それでも自分はこの色がとても好きで、とにかく色々調べてしまったために「好きな色は?」と聞かれたときはいつも、頭の中でひととおり上の文句を唱えています。
「内観の色を言葉で表現する」というのは古来から非常に難しい問題のようで、哲学分野でもよく「あなたの見ている赤と私の見ている赤は本当に同じ赤なのだろうか」という問いが取り沙汰されます。自分も長らくこの問題について考えたことがあり、いわばこの問いがきっかけとなって神経科学分野を専攻したのですが、最終的に「全ての問いに答えを出す必要はない」「言葉で説明できないことはたくさんある」と思うようになりました。
らくがき: 水彩の試し書き。黄色い部分がウィンザー&ニュートンの「ニューガンボージ」。新しい色の絵具を買ったときは、手元にある色と混ぜてどんな時に使うか考えます。
今シーズンのプリキュアも大団円を迎えました。Go! プリンセスプリキュアは、これまで自分が見たシリーズの中でも抜群に「王道」を行く展開だったように思います。プリキュアも、プリキュアを囲むモブキャラ達も一年を通して少しずつ成長していく。そしてそれぞれの戦いの中で自分自身の夢を見つけ、絶望の化身たるディスピアに立ち向かう...。まさに大団円です。プリキュアシリーズの脚本・演出・作画は必ずしも安定しているとは限らないので、毎年2月の最終決戦が近づくと「今年の最終話は本当に大丈夫だろうか」というハラハラドキドキ感があるのですが、今シーズンは序盤・中盤・終盤全く隙のない熱いバトル展開が繰り広げられ、とても安心感がありました。思いついたタイミングで個人的にグッときた回について何か書 (描)く予定です。
きょうのファンアート: "キラめく星のプリンセス" キュアトゥインクル。彼女は時折、生半可な女幹部なら裸足で逃げ出すような決めカットを見せてくれます。
イラストレーターのますとみけいです。ブログを作成しました。お知らせ、日々思うこと、テレビ番組の感想やちょっとしたスケッチなどを掲載していきます。
電車スケッチ: 中央線で見た二人組。付き合ってるのかな。