
ねこカフェで描いたねこ。
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大晦日の深夜、メモを取りながら「ビジョン」を読み返した。
この本には因縁があって、なかなか手放せないままずっと持っている。
Marrは「見るとはどういうことなのか」について、理解すること、説明することを最後まであきらめなかった。あきらめずに説明しようとするなら、これだけの丁寧さと、用意周到さ、多方面への配慮を持って書き尽くさなくてはならないのか。めまいがする。ただひたすらにありがたい。
絵を描くようになってから読み返すと、各所で説明される「視覚系の説くべき問題」が「自分ごと」として見えてくる。ねこのラインをどう描いたら、脳はねこだと認識してくれるのか。身体のラインを、どこまでどう残して描き進めたら、描かない残りの身体も「ある」ものだと認識されるのか。途切れて描くといいライン、途切れた方がいいライン、途切れてはまずいラインはどこなのか (上の絵は、まだうまくいっていない)。陰影からの形状復元の話。やはり、陰影があった方が物体認識は楽なのか。
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「視覚は何をしているのか」について、自分なりの答えが準備できつつある。
脳 (というか視覚系) は、絵を描いている。
外界を解釈し、行動の役に立てるべく、外界のスケッチを取り続けている。
脳の中に「スケッチ」があるという考え方が、今はすんなり飲み込める。Marrは「原始スケッチ」「2と1/2次元スケッチ」という新語を導入した。目からの入力に近い段階の表現を「原始スケッチ」、奥行き情報を付加した情報のまとまりを「2と1/2次元スケッチ」と呼ぶ。そして、これらの新語を導入するアイディアにたどり着いたことを「私にとって, 全研究の中で最も喜ばしいでき事であった」(翻訳版 p.295) とまで書いている。
多分、脳はスケッチをしている。それは、きっとそうだ。私はこのことについて、もう少し考えて、また文章を書いた方がいいかもしれない。研究者に向けてか、絵描きに向けてか、わからないけれど。また、いつになるだろう。
年末、本を手放すつもりで「最後にもう一度だけ読んでおこう」と思ったのに、また手放せなくなってしまった。Blogも手放せない。そういえば「本は手放す前に中身を読むな」ってアドバイス、片付けの本に書いてあった。