「この本をなんとか読み尽くし、内容について語り尽くさなくては、絶対に手放せない」という気持ちで十数年持ち続けた本を、手放すことにした。去年の暮れに一念発起してから、何度か読み返したり、関係する方とお話ししたり、絵を描いたりして、一年過ごして、ようやく諦めがついてきた。
初期知覚の裏側、意識の外側、考えるより早く起こる無数の自律処理について、言葉を尽くし、叡智を尽くし、死力を尽くして書き切ろうとした本だった。そんな本の内容について「語り尽くそう」だなんて本当に無茶だった。
せめて、私にできることは、私が特に興味をもった内容について、あらためて書いて紹介するくらいだ。特に、この本の中心部分「2と1/2次元スケッチ (2.5次元スケッチ)」の詳細については、一度自分の言葉で書き下してみたかった。あくまで私の解釈なので、興味のある方は、原著・翻訳本の第3章3.3節「立体視」、第4章「可視表面の直接表現」(上の絵の中の、ピンクのふせんがあるあたり) 、第7章7.2節「会話」をお読みいただくのがいいと思う。
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(ここに至るまでの経緯)
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「2と1/2次元スケッチ (2.5次元スケッチ) 」とは、視覚系が、過去の記憶や事前知識によらず、今まさにこの瞬間、片目・両目から入ってきている光景だけをもとにして、ぎりぎりまで「奥行き」や「立体構造」を推測した情報をまとめてつくる、脳内の小さな記憶バッファのことらしい。1/2次元とか、0.5次元という数字には、視覚が「奥行き方向 (3次元目) 」がどうなっているのかを推測している (実測の結果ではない) という意味が込められている。この小さなバッファは、目がキョロキョロ動くごと、いちいち内容が描き換わる。それぐらい軽く小さな構造体で、描き直しの不経済さより、古い内容が新しい入力でどんどん更新されることの方が重要なのだった。
マーにとって「2と1/2次元スケッチ」のアイディアを考えついたのは「全研究の中で最も喜ばしいでき事であった」(翻訳版 4章 p.295) らしい。初期視覚の「目的」が、「光景の"物体"への分割や物体認識に関連して付随的にさまざまな難しい問題が生じる前に, 客観的な物理的実在を内部で表現しておくことだ」と気づけたのが、良かったそうだ。この気づきを「2と1/2次元スケッチ」という、ちょっと洒落た単語に代表させることで、納得して天国に旅立てたのかもしれない。
もっとも「そんなもの実際に脳内にあるのか?」という話については、わからない。本の出版から40年以上経った現在「2と1/2次元スケッチが脳の中から見つかった」という話を聞かない。脳の研究は途方がない。見つからないからといって、ないとも言えないし、何も言えない。
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ここから先は、本の内容から離れた、私の興味。十数年前、私がまだ知覚の研究をしていて、絵を描いていなかったころに想像した「絵を描く人ならきっと知っていること、描かない人は知らない"何か"」について。
初期視覚の奥行き推測機構に、奥行きを推測させられるだけの「十分な情報」を伝えられたなら、絵はある種のリアリティを持つ。描写は、簡素でもいい。
「それが本当にそこにある」ような絵、キャンバスの向こうに手が入りそうな絵、あまり描き込まれていないのに、確かな深さを感じる絵。そういう絵には、初期視覚の求める「奥行き推測の手がかり」が残されている。また、奥行き解釈に曖昧性をもたらす、不要な描写が残されていない。
よく思い出すことがある。笠井先生の教室で、講評の時間に「雰囲気はいいけど、特にこのあたり、どっちが前か、もうちょっと"説明"してあげてもいいと思うよ?」とアドバイスをいただくことが何度もあった。あれだけ「説明しない」「描かない」ことの大切さを説く先生が「説明」の必要性や、「もう少し描く」ことの大切さを丁寧に説かれることが、とても印象深かった。
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私のような、未熟の絵描きが描く「しっくりこない絵」というのは「それを表した"つもり"」になっていて、「"目" (視覚) には "そう"とは見えていない」絵なのだと思う。
じゃあその「十分な情報」とかいうのが、"どう"であればいいのか。未熟の私は、言葉で表せそうにない。たぶん、絵描きはそれを一生かけて学ぶんだろうとも思っている。「ただ描けばいいわけではない」みたいな、苦い現実を肌で感じながら。