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(8から続く)
ある日、食堂から戻る途中、Kさんがぼそっと言った。
「何が正しいなんて、ないんですよ」
自分の中で、とてもはっとする言葉だった。
「ないんですね」
「そう。ないんです」
そうして、Kさんも私も黙ったまま居室に戻った。
...
2月の終わりになった。
あらためて、職場を離れる意思をKさんに伝えた。
「すみません。色々お世話になりました」
「君はいつもそう、はっきり言ってくれたらいいんですよ。そうしたら、こっちも心の準備ができるから」
「すみません..」
「引き継ぎの資料を作ってください。今まで作ったプログラムについては、資料を読めば誰でも使えるよう細かく整備してください」
「はい。できる限り手を入れます」
「お願いします。ところで、春からどうするんですか」
「まだ悩むことは色々あるんですが、個人的な製作をメインに活動していこうと思います。それから、水彩画の先生の教室に通います。水彩の基礎を学んできます」
「ああ。いいですね」
「ありがとうございます」
「そうだ。最後に私から、個人的に絵の仕事をお願いしたい」
びっくりした。
「絵ですか」
「そうです」
「どういった絵でしょう」
「明日、休憩のとき詳しく話します」
...
翌日、休憩スペースでKさんと向かい合った。
「私の頭の中にある "理想の飛行機" を描いてください」
「Kさんの、理想の飛行機ですか」
「そうです。詳しく話すのでよく聞いてください」
「正直、私が作りたい飛行機は、極音速でも超音速でもないんです。速く飛ばなくたっていい。私は、ゆっくり旅がしたいんです。フェリーみたいにゆっくり進む飛行機がほしい。機内に入ったら、靴を脱いで上がれるごろ寝のスペースがあって、そこに雑魚寝の乗客がたくさんいる。広々としたカーペットの上で、それぞれの人たちがめいめい思い思いの楽しい時間を過ごす。こういう飛行機のイメージが私の中にずっとあります。私は長い間、このイメージを絵にしたいと思っていた。だけど、私は思うように絵が描けない。私に代わって、このイメージを具現化してください。これから言うことのメモを取ってもらえますか」
「はい」
「そうしたら、まず、絵の中にはたくさんの人を描き込んでください。毛布にくるまってのんびり寝ている人、友達数名と車座になってカードゲームをやっている人、走り回っている子ども、一人で本を読んでいる人、カーペットの上にはお茶のシミができてたり、食べ終わったお弁当のカラが散らかってたりする。おみやげの紙袋もあるといいですね。外国の人も交えてください。あとは、せっかくだから、ちょっとキュートなCAさんもいてほしいかなあ。そうだ、日本酒の瓶を抱えて酒盛りをするサラリーマン。これは絶対に描いてほしい」
「わかりました」
「フェリーに乗ったことはありますか」
「あります。私も船の旅が好きなので」
「あの感じです。できる限り細かく描いてください」
「わかりました...この機は、ドローンみたいに垂直離陸するイメージですか。離着陸の時シートベルトがないと、機が傾いたらみんな転がってっちゃいそうですが」
「まあ、そのあたりはお任せします」
「わかりました。絵のタッチは何かご希望がありますか」
「水彩がいいですね」
Kさんは手元のノートパソコンを開いた。
私のBlogが表示されていた。
「どれか、わかりやすい絵がないかなあ」
「Kさん、Blog読んでたんですか」
「読んでますよ。『アトリエ・サルバドールの冒険』。ずっと聞きたかったんですが、なんでこんなタイトルにしたんですか」
「毎日が物語みたいになってほしくて...最初は、もっと紀行文を書きたかったんです。あと『シャーロック・ホームズの冒険』のオマージュで...言ってて恥ずかしくなってきました」
「あった。航空記念公園の絵。この絵が一番イメージに近い。こっちの飛行機の絵だとちょっと違うな。もう少し人を細かく描いてほしい。あとこっちの絵、これは雑すぎる」
「すいません...」
「でも私はあなたの絵が好きです。みんな、半分夢の中にいるような。」
(ああ)
Kさんの言葉は、とてもしっくりくるのだった。
「ありがとうございます。そういう絵が描きたかったんです」
「良かった。今回描いてもらう絵もぜひBlogに載せてください。この先、あなたが絵本を描く仕事をするとき、編集者さんに見てもらったらいいと思います」
「助かります。ぜひご紹介させてください」
打ち合わせはまとまった。
Kさんはニヤニヤしながら、ゆっくり言った。
「期待しています」
私は苦笑してしまった。
「ありがとうございます。ご期待に応えられるよう、精一杯頑張ります」
...
(10へつづく)