2020年の1月、Kさんという方が亡くなった。飛行機の研究所で働いていたときの上司さんだった。
ずっと、この人との思い出を書きたいと思っていた。
私は、Kさんとの3年間の関わりを通じて「自信を持って生きる」とはどういうことかを教えてもらった。教わったからといって、自信たっぷりに生きられるわけではないことも教えてもらった。自信を持つ方法、それは「ありのままで生きる」ということ。もっと言うなら「自分を"装う"のをやめる」ということ。
Kさんはお茶目で、シャイで、とんでもない方だった。交流しているあいだに被った害がたくさんある。だけど、教えていただいたこと、与えていただいたものの方がもっとずっとたくさんある。
少しずつ書いていきたい。
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研究所で働き始める1年前の2014年、私は大学院を退学して「絵の仕事」を始めた。研究者をクライアントとして、研究発表用のイラストを描いたり、異動・転勤する方への贈り物の絵を描いたり、イベント用のパンフレットを作成したりした。税務署に個人事業主の開業届を提出して、事業所の名前を「アトリエ・サルバドール」にした。当時読んでいた学術論文の謝辞欄に「We thank Salvador...」という書き出しの一文があって、なんとなく「それでいこう」と思った。当時の私は"直感"を信奉していて、何かにつけて適当な直感を元に判断を下していた。そして、直感に従い「私はもう研究をしない。何かを作って生きていく。その方が絶対うまくいく」と信じ込んでいた。
だけど、開業半年にして「何かを作る」のがもう嫌になってしまった。
まず、ものがうまく描けない。ものの形がうまく取れない。似顔絵も、チラシデザインもうまく仕上がらない。どうも何かがしっくりこない。ギリギリまで細かいところを調整しても、いつまでたっても何かがおかしく、バランスを欠いて不完全に見える。クライアントさんの反応からも「うん、まあ、これで大丈夫です。どうもありがとう」という、あまりはかばかしくない印象が伝わってくる。
自分に基礎の技術がないことが、ようやく身に染みてきた。私は、アカデミックなデッサン課程を通っていない。絵は完全に趣味だった。1年前から絵の学校に通いはじめた。だけどセツ・モードセミナーは生徒に基礎を教えない。セツは「基礎はどうでもいい。勝手に身に付く。"本当の美"はそんなものでは決まらない」というスタンスだ。足の長い、素敵な服を着た美男美女のモデルさんは、毎週好きなだけ描かせてもらえる...。もう、自学自習しかない。私は世界堂の書籍コーナーで技法書を買った。だけど、どの本もレベルが高すぎた。読まない技法書が部屋に溜まっていった。
そのうち製作の着手が遅れるようになった。昔からの悪い癖だった。心の中では「早め早めでやろう」と思っているのに、手をつけるのが遅れてしまう。「ちゃんとできない」ことへの不安から、どんどん手が付けられなくなっていく。そうして、毎回締め切りギリギリに始めてしまい、作品のクオリティを下げてしまう。いつまでたっても作ることが楽しくない。苦しみばかりが募っていく。
頭の底からはいつも "書きかけの論文" の声がする。「私を忘れないで」という...。私は博論研究と向き合えないから、単位取得退学して、絵を描く方に逃げてきた。そもそも論文が書けなくなったのだって「ちゃんとできない」ことへの不安とうまく向き合えなかったからだ。私は「博論のことを気にしているから作品の仕上がりがまずい」と思い込もうとした。そして一層落ち込んだ。
常に動悸がするようになった。朝起きてから寝るまで、延々動悸に見舞われた。絵の学校の授業中、何も描けず、カフェスペースのソファに寝転んで過ごした。友達や先生が心配して見に来てくれた。博士4年目の在学延長中、絵の学校は私の「心の救い」だった。研究室でどれだけ苦しくても、小田急に乗って絵の学校へ向かい、無心でモデルさんをスケッチするとき、生きてる感じがひしひしとした。だけどもう、絵の学校にいるのも苦しくなってきた。
あるお仕事のとき、私の要件定義のまずさが原因で「これ以上契約も製作も続けられません」という破綻的な出来事が起きてしまった。依頼主さんとの交渉は終わり、私は製作を断念した。
それでもう、何かが切れてしまった。動悸は一層ひどくなった。私は、論文から絵に逃げることで心を落ち着けようとした。なのに、今度はいよいよ絵からも逃げなくてはならないのか。
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2015年3月、動悸を抑える薬を飲みながら、国分寺の職安に通い始めた。
職安の相談員さんに、当時描いていたポストカードサイズの絵を見ていただいた。
「へー!面白いね。うまいかどうかはわからないけど」
「ありがとうございます...」
「これ、井の頭公園で売ったらどうかな。井の頭公園、いろんなアーティストさんがポストカードを売ってるよ。誰か買ってくれるかもしれない」
「それ、すごく楽しそうです。やってみたい。」
「いいね。それから当面の"仕事"は、一度絵から離れて、とりあえず、今持っている能力で何か稼げることを探してみたらどうだろう。何かもう少し、今までの専門を生かした職を見つけてみるとか」
「やってみます...」
相談員さんのアドバイスは的確だった。「とりあえず、今できることを無理のない範囲でやろう」と思った。
研究施設への技術員を派遣する会社に登録した。大学院時代、とてもお世話になった秘書さんの派遣元だった (この方には前々から「ますとみさん、いざとなったらうちに登録したらいいですよ。いいとこです!」と言われ続けていた。この秘書さんは、いずれ私がそうなることを予見していたような気がする。)
しばらくして最初に打診されたのが「飛行機の研究所でのデータ整理」のお仕事だった。派遣会社からの「本契約をしますか?」というメールを見て、指が震えた。吐き気がした。こんな私が、できるだろうか?また何かトラブルを起こして、ひどい迷惑をかけてしまうんじゃないだろうか?
断ってしまおうか...断ってしまいたい。飛行機なんて責任持てない。だけど、飛行機の仕事ってなんだろう。すごくレアだ。なかなかない。乗り物が好きだ。飛行機、いつか描いてみたいと思って、ずっと描けないでいる。少しでも、飛行機に近づけるならいいな。絵の資料集めにもいいかもしれない。
脂汗を出しながら「就業します。」と返信した。
2015年の4月から、お仕事がはじまることになった。
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お仕事の初日、職場でご挨拶をした。古い建屋の小さな居室で、4名の研究者がコンピュータ作業をしていた。直属の上司のYさんは女性だった。笑顔が素敵な明るい方だった。Yさんは「じゃあ、Kさんにも紹介しますね」と言って、私をKさんのデスクへ連れて行った。
そのとき初めてKさんに会った。
第一印象はつげ義春の「無能の人」だった。ここの研究所は、ほとんどの構成員が作業用のジャンパーを着ている。その中で、Kさんだけは黒い背広にノーネクタイで、その背広の両方の袖口がほころびて、端から無数の糸が出ていた。
私は、ものすごく小さい声で「はじめまして」と挨拶した。
Kさんは目を合わせずに「はい、今日からよろしく」と言った。
Yさんが「本業はイラストレーターなんですって。絵描きさんですよ!」と言った。私は、恥ずかしくなって「一応、イラストレーターです。これでも...とてもおこがましいですが...」と言いながら、本当に辛くなって下を向いた。
「あ、そうしたら、飛行機描いてもらおう。水彩がいいな」とKさんが言った。
( 水彩?)
Yさんが笑って「Kさんダメですよ!それは別料金だから!」と言った。 するとKさんは「じゃあ、もうちょっと仲良くなってから、個人的に頼もうかな」と言って、また手元の作業に戻っていった。
Yさんから「これどうぞ」と服を渡された。研究所のロゴが入ったジャンパーだった。
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それから、私は研究所に通った。Yさんはとても親切で、仕事はとても順調に進んだ。同じ居室の2名の研究員さんとも交流するようになった。Kさんと会話することはほとんどなかった。
(2へ続く)
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